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山城屋おんな3代経営記

女性が創ってきた山城屋

1521年、山梨県(甲州)より高松市福善寺の随行者として香川県(讃岐国)へ移り住んだ真田家は江戸時代には豪商として米問屋を営んでいた。1904年に山城屋という屋号を東本願寺から授かり、同年に創業して以来、日本の食卓には欠かせない乾物を提供してきた。戦前は日本一の漁場である瀬戸内海の漁師たちをもてなすことで煮干しを一手に買い集めることができ、隆盛を極めた。しかし第二次世界大戦の影響で家屋消失、農地解放、銀行の預金封鎖等によってほとんどの財産をなくす。戦争が終わった翌1946(昭和21)年、乾物問屋としてゼロから再スタート。1958(昭和33)年にはスーパーマーケットの幕開けに目をつけ、周囲の反対を押し切って四国から大阪に進出した。スーパー専用問屋として新たな土地で始めた事業は、年商30億円にまで成長した。しかし時が経ち競争が激しくなる中、1980年代、問屋から乾物メーカーになることを決意。当時、主力商品を削ることによって30億の年商は一気に年商6億円にまで落ち込んだ。1990年に入り食品問屋の状況はより一層厳しくなったが、山城屋はメーカーに切り替わったことで新たな成長を遂げることができた。2005年(平成17年)には年商36億円にまで成長し、2009年には次なる100年を見据えて京都府宇治市に本社工場を移転した。
これまで数々の困難を乗り越えてきた山城屋。その困難な状況から新たな突破口を見つけたところには、いつも女性の存在があった。昭和、平成、そして未来・・・・。それぞれの時代を駆ける女3世代の挑戦を紹介する。

真田サダ 真田悦子 真田千奈美

Brief History
Sanada Co., Ltd. (株式会社 真田) was established by the founding mother, Sada Sanada in 1904. The house name, Yamashiroya (山城屋), was bestowed by a Buddhist temple, Higashi-Hongaji (Kyoto). Before then, the Sanadas had been rice wholesalers for 300 years in the Kagawa prefecture. Sada’s first business was the wholesale of dried sardines. Her innovation was gathering local fishermen to develop into a new source of supply. After decades of growth, the entire property of the family was totally destroyed in WWII. The death of the successor especially devastated the family. Sada, however, reestablished the company in 1946, and luckily had a talented daughter-in-law, Etsuko, in the third-generation “team”.
By 1958, Etsuko found a new client base, supermarkets in Osaka, and changed their business into the specialized trading company of dried foods for national supermarket chains. The business was successful, and the company moved to Osaka to fulfill the growing demand of the new market. However, at the peak of the growth in 1985, they found that market growth was limited due to increasing competition. They swiftly and boldly changed the company into a manufacturer of dried foods.
After reaching a sales peak in 2004, the company celebrated its 100th anniversary. This time, the fourth-generation team, their son and in-law daughter, Chinami, again realized the time had come to re-invent the company given the gradual saturation of the market. They reorganized the existing business by reducing the product lines and by strict quality control. In 2006, they moved the headquarters to Kyoto to develop new customers. In 2014, they started a new business, dried vegetable manufacturing, with a farming corporation in Kyoto.

In 2016, the fifth generation, their young son, took over the business.

山城屋の歴史 大永元年(一五〇〇年初頭)甲斐より高松へ。江戸時代米問屋を営む。|明治三十七年(一九〇四年)四国香川にて煮干し専門問屋「通町 山城屋」開業。|昭和二十年(一九四五年)七月四日米軍による空爆。市街地の約八割が被災。真田家も全戸消失し、商売中止。|昭和三十九年(一九六四年)有限会社真田商店として乾物問屋再開。|昭和三十三年(一九五八年)十一月三十日四国より大阪市に進出し、スーパー専門問屋になる。|昭和四十年(一九六五年)大阪府守口市へ移転。|昭和四十七年(一九七二年)五月二十五日株式会社真田設立|昭和五十六年(一九八一年)山城屋ブランドにて乾物を発売。|平成十五年(二〇〇四年)九月二十九日山城屋百周年京都東山八坂の塔の地にて、京山城屋開業。|平成十八年(二〇〇六年)九月二十九日本社を京都市東山区八坂塔上田町へ移転。|平成二十年(二〇〇八年)九月一日京都府宇治市槇島町目川にて本社工場稼働開始

真田サダの挑戦

真田家の歴史は香川県高松市にある真田家の菩提寺、無漏山須摩提院福善寺と共にあり、真田家は戦前からこの福善寺の檀家総代であった。戦国時代の大永年間、西暦1521年甲州より讃岐に移り住んだと真田の家名を見ることができる。
江戸時代は米問屋を営み、大地主であった真田家。その真田家が大きく飛躍するのが1900年、真田サダが彦次郎を養子に迎え、良き参謀に巡り合う事によるものであった。真田サダの計らいで東本願寺の改修時に寄進をし、1904年京都東本願寺より「山城屋」の屋号を賜った。そして瀬戸内海全域の漁師より煮干を買い付け、煮干問屋を創業した。
貧しい漁師に対して常に立派な御殿、夜具、ご馳走、酒を用意して、煮干の収穫を待った。そのためこぞって山城屋に煮干が集まり、昭和初期に全盛期を迎えた。港には十の蔵を有し、当時珍しい3階建ての家屋に直径60cmほどの大黒柱であったと伝えられている。しかし、戦争により財産をなくすことになり、1946年に小乾物問屋として再スタートさせる。そして昭和を駆け抜けた真田悦子を山城屋の後継者と見定め、1953年7月4日永眠した。

真田サダ 肖像写真 100年前の東本願寺真田家の墓石に刻まれた「通町 山城屋」の文字

昭和の時代 真田悦子の挑戦 18歳の悦子

悦子が結婚をしたのは19歳の時、見合い結婚だった。相手は、戦前煮干商として隆盛を極めた山城屋の跡継ぎである真田和夫だった。真田家には代々、経営に携わる女性が存在しており、戦前の隆盛を創ったのは和夫の祖母にあたる真田サダであった。サダの娘婿、明が若くして亡くなったため、明の息子である和夫が後継ぎになるのだが、和夫が病気がちであり、かわりに会社を引っ張っていける女性を探していた。悦子を和夫の嫁と見定め、それがサダの最後の仕事であったかのように、サダは結婚式の1か月前に亡くなった。そして、すぐに病気がちな主人にかわって、悦子が会社の陣頭指揮をとることになった。
子どもを産み育てながら会社を経営する中で、1958年悦子が24歳の時に転機が訪れた。四国で初めてスーパーマーケット「主婦の店」がオープンすると聞いて、臨月の悦子は商売人5人の仲間たちとともに愛媛県松山市まで視察に出かけた。当時の買い物は全て対面販売で、見栄もあり徳用品ばかりを買うことができにくかったが、買いたいものを好きなだけ買えるスーパーのあり方に驚愕し、その様子を見て鳥肌が立った。四国初の出店ということもあり、日本でスーパーの原点を作った指導者が来られていたため、直接色々話を聞くことができた。「スーパーを相手に商売をするのだったら、大阪に出た方がいい。今関西では毎月のように新店舗ができている。」とアドバイスをくれた。これから時代が変わると思った悦子は「子どもを産んだらすぐに大阪に向かいます!」と決意した。一緒に見学に行った仲間も誘ったが、周りから大反発を受けることとなった。そして視察から3か月後、生まれたての子を抱え、一家で大阪に向かった。実家の猛反対や近所や商売人仲間の嘲笑の中での引っ越しだった。


親族で撮影した一枚(昭和27年)

それから20年近くが経過して、会社は30億円ほどの売上にまで成長したが、1980年代になると中小問屋には厳しい時代となっていた。その頃アメリカに留学していた長男佳武が帰国した。「乾物のことならわかる。乾物のメーカーになろう。」とことある毎に勧める。しかし問屋を止めると資金繰りも支障をきたすことになる。その時、悦子は円形脱毛症になり声が出なくなるほど悩んだ。しかし、メインバンクに理解を示してもらうことができ、1981年、乾物メーカーに業態変換することを決意した。そして「乾物で日本一になろう」と決め、その決意を社員全員に繰りかえし語った。「乾物は日本の食文化の中で絶対に廃れることはない」との強い信念から原料、デザイン、商品説明、プライスなどに注力し商品開発に当たった。そして本物志向のお客様にも喜んで頂ける乾物とは何かを追及した結果、大手スーパー各社から商品のオーダーが相次ぎ、メーカーへシフトさせることに成功した。また乾物だけでスーパーの棚が構成できるだけの数の商品を作り、商品構成や売上げ・利益の予想まで含めて提案しスーパーに売り込んだことで、山城屋の商品は全国に拡がり始めた。
300種類を超える商品開発に携わった悦子だが、その中には業界の常識を覆した商品がある。それが「京いりごま」だ。今日では家庭でも定番として使われている金ごまだが、当時は一般に出回ることはなく、京都の七味メーカーが京七味用に使っている程度だった。その金ごまを初めて食べた時、「今までのごまとは全く違う!」とその香ばしさとうまみに驚いた。一般のごまが20〜30円のところ3倍の価格であったが「これだけ香りがよく味が違ったら絶対に売れる!」と確信した。京いりごまは発売の翌月から評判を呼び、今までになかった金ごまはごま部門売上日本1位を記録した。この京いりごまは今なお山城屋の看板商品として売れ続けている。その京いりごまと肩を並べ、山城屋の看板商品となっているのが京きな粉だ。京きな粉は北海道産大豆にこだわり、手間をかけて少量ずつ大豆を焙煎する製法だ。京きな粉が全国で広まるきっかけになったのは、牛乳にきな粉を混ぜる飲み方が広がったことにある。数あるきな粉の中で、「このきめ細やかで香ばしさの深い焙煎の京きな粉ががどれよりも美味しい!」と牛乳きな粉ファンの中で情報が広まり、一気に浸透して行き、きな粉部門売上日本1位となった。山城屋にとって「京いりごま」や「京きな粉」といった「京」の冠を持つ商品が会社の看板商品になったことが、次世代への京都ブランドの創造に繋がることとなる。
2005年、年商36億円を達成し、71歳にて退職した。


大阪で始めて購入した4軒長屋の前大阪で始めて購入した4軒長屋の前守口市にあった本社工場

平成の時代真田千奈美の挑戦|商売人に嫁がせるようにと、祖母が探した見合い相手

 千奈美は23歳で、香川県にある手袋メーカーの創業者である祖母七五三子の薦める見合いで結婚した。「千奈美は私にそっくりだ。あなたのような気の強い女は、商売人に嫁がなければならない。」と小さい頃から、ことあるごとに祖母は言い続けてきた。そして言うだけではなく「嫁に仕事をさせてくれる商売人」である見合い相手まで探してきたのである。紹介された見合いに応じて、真田佳武と結婚し、当時食品問屋だった「株式会社真田」へ1982年に嫁いだ。
当時の真田は中小問屋として事業を続けていくことに危機を迎えており、これから乾物メーカーに切り替わろうとするタイミングだった。会社では総務・経理・人事の仕事に約10年間携わりながら、3人の子どもを産み育てた。その間、就業規則や人事考課表作成などを成し、だんだんと仕入や商品開発を行うようになって行った。そうして専務の悦子とともに商品開発に携わった乾物は全国のスーパーで販売され、ヒット商品となった。会長悦子・社長佳武・専務千奈美の3人で仕事を役割分担し、増築を繰り返しながら社員数も約100名になった。同時に売り上げも2005年度には36億円にまで成長した。

ドラッカー翻訳者、上田惇生先生とのお写真

2006年、順調に業績が推移してきた山城屋が転機を迎えた。今まで増収増益を続けてきたが、この年になって5%売上が低下したからだ。そして次年も売り上げは5%減少し、利益率も低下を始めた。売上減少の理由を考えた時、内部要因もさることながら、消費者の二極化(品質志向・価格志向)による市場変化によるものであった。そしてこれからも環境はどんどん変化していくからこそ、今こそ大きく会社の方針を転換していくべきだと思いめぐらすようになった。いかに革新していくべきかを思案していた時、目に飛び込んできたのは立命館大学MBAのポスターだった。試験を受けることを決意した。入学してからは今まで悩んでいたことが次々と頭の中で整理されていき、大学での学びが仕事につながっていった。まさに今手を打つべきであると再確認することができた。本社工場を京都に移すことを決め、「京都ブランド」を創造することに生き残る道を見出した。心身ともに京都の企業となるために、京都八坂に店舗「京山城屋」を開業し、2009年に本社を京都府宇治市へ移転しながら、戦略の改革も同時に行った。「売上は下がって良い。」との判断から商品数を300種から200種まで削減、物流部門を外部委託し、ブランド創造と共に社内合理化を目指した。
大学で学ぶことで、自身の役割をこのように考えるようになった。ドラッカーの「何によって憶えられたいか」という問いに「創業100年の山城屋を永続する1000年企業に育てる。そして、革新と共に身の丈の幸福感を追い続け、その礎を創った者として憶えられたい。」そう決めたからには次々と邁進していく。
工場の充実こそがこれからの生きる道と考え、乾物工場としては珍しいISO9001を取得し、長男英明に工場を任せた。2014年六次産業化によって農業生産者と「京都産金ごま・京野菜乾物」の生産を始め、「山城屋商品基準書」を作成した一方、社内改革を進めるプロジェクトをつくり会社の改革、社員の育成にも力を注いでいる。オンラインビジネス、社内のIT化を推進。1000年企業に向けて、会社は大きく変わり始めた。
山城屋が新たな取り組みとして農商工連携により2011年3月、「きな粉」」の販売拠点として京都八坂にきなこ専門店「きなこ家」をオープンした。オープンして5年、狙いは当たり若い世代が多く訪れ、店内は賑わいを見せている。メディアからの問い合わせも増え、有名タレントが続々と訪れる店舗となった。これにより悦子の開発した「京きな粉」の売り上げは毎年伸びて続けている。 また、クックパッドによる乾物料理の紹介やフェイスブックによる産地紹介がさらなる山城屋ファンを増やし、自らが講師となって乾物料理教室をも開催している。また、観光ビジネスとしての京七味つくり体験は選りすぐりの国産原料を用い京七味を作って頂く体験ものとして認知されつつあり、同時に「国産京七味」の人気も増している。「小さくて強いものを創る」と決めたイノベーションにより一旦落ちた売上、利益はブランドに裏付けされた商品品質、社員の育成、社内合理化により2013年より反転を始めた。

宇治本社工場 きなこ家 京都八坂本店
真田英明の時代

2017年、長男英明が社長となり新しい山城屋が始まった。どのような時代でもお客様に喜んで頂ける乾物の創造を目指し、イノベーションを繰り返しながら1000年企業を目指す山城屋の若い力に期待する。「山城屋は乾物を通じて必ず変化しなければならない。そのための日々の努力である。」子孫に伝え続けなければならないと強く思う。


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