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山城屋おんな3代経営記

創業から100有余年、女性が創ってきた山城屋

江戸初期、香川県で米問屋を営んでいた真田家は、1904年に山城屋という屋号を東本願寺から授かり、同年に創業して以来、日本の食卓には欠かせない乾物を提供してきた。煮干し問屋として開業し、戦前は日本一の漁場である瀬戸内海の煮干しを一手に買い集め、当時の銀行預金率NO.1というほど、隆盛を極めた。しかし第二次世界大戦の影響で家屋消失、農地解放、銀行の預金封鎖等によってほとんどの財産をなくす。戦争が終わった翌1946(昭和21)年、乾物問屋としてゼロから再スタート。1958(昭和33)年にはスーパーマーケットの幕開けに目をつけ、周囲の反対を押し切って四国から大阪に進出した。スーパー専用問屋として新たな土地で始めた事業は、時代の流れと大手のメーカー商品の取り扱いにより、年商30億円にまで成長した。しかし時が経ち競争が激しくなる中、1980年代、問屋から乾物メーカーになることを決意。当時、主力商品を削ることによって30億の年商は一気に年商6億円にまで落ち込んだ。1990年に入り食品問屋の状況はより一層厳しくなったが、山城屋はメーカーに切り替わったことで新たな成長を遂げることができた。2005年(平成17年)には年商36億円にまで成長し、2009年には次なる100年を見据えて京都府宇治市に本社工場を移転した。
これまで数々の困難を乗り越えてきた山城屋。その困難な状況から新たな突破口を見つけたところには、いつも女性の存在があった。昭和、平成、そして未来・・・・。それぞれの時代を駆ける女3世代の挑戦を紹介する。

一代目:真田悦子|二代目:真田千奈美|三代目:真田寛子 山城屋の歴史 大永元年(一五〇〇年初頭)甲斐より高松へ。江戸時代米問屋を営む。|明治三十七年(一九〇四年)四国香川にて煮干し専門問屋「通町 山城屋」開業。|昭和二十年(一九四五年)七月四日米軍による空爆。市街地の約八割が被災。真田家も全戸消失し、商売中止。|昭和三十九年(一九六四年)有限会社真田商店として乾物問屋再開。|昭和三十三年(一九五八年)十一月三十日四国より大阪市に進出し、スーパー専門問屋になる。|昭和四十年(一九六五年)大阪府守口市へ移転。|昭和四十七年(一九七二年)五月二十五日株式会社真田設立|昭和五十六年(一九八一年)山城屋ブランドにて乾物を発売。|平成十五年(二〇〇四年)九月二十九日山城屋百周年京都東山八坂の塔の地にて、京山城屋開業。|平成十八年(二〇〇六年)九月二十九日本社を京都市東山区八坂塔上田町へ移転。|平成二十年(二〇〇八年)九月一日京都府宇治市槇島町目川にて本社工場稼働開始
昭和の時代 真田悦子の挑戦 18歳の悦子

香川県高松市で200年続く名門家庭で5人兄弟の次女として育った悦子。両親共に教育者で厳格な家庭環境は近所でも有名で、家で勉強していたら怒られたという。勉強は学校でやりきってきて、家に帰ってからは家事を手伝うのが当たり前だった。悦子の父は地域の模範であるべきという考え方で子どもたちと接していたため、常に厳しい態度で臨んだ。そのような家庭環境で育った悦子は高校卒業後、呉服店で働くことになる。当時、教育者の家庭で育った若い女性がアルバイトをすることは考えられず、親にそのまま希望を伝えれば反対されることは予想できたので、アルバイト先の呉服店から「どうしても悦子さんに半年間だけ手伝ってもらいたい。」と言ってもらうことにした。

そして見事親を説得できた悦子は、県内で1,2位を争う呉服屋で「商売のイロハ」を学ぶことになる。 仕事を始めた当初、任された仕事は簡単なものばかりで悦子は「これでお金をもらうのは申し訳ない」と考え、自分ができることを考えた。そこで目に留まったのは掛け売りの未収金の多さだった。当時の商売ではお客様に持ってきてもらうのが通例で、お店から回収を働きかけることはなかった。


親族で撮影した一枚(昭和27年)

そこで悦子は「電話をするだけなら自分にでもできる!」と直接お客様に電話をかけて回収に伺うことにした。するとお客様は意外にも喜んでくれて思いがけない言葉を聞くことになった。それは「ずっと払いたいと思ってたんやけど、お店に行ったらまた別の商品を買わないとあかんやろ。だから来てもらってすごい助かったわ。」という言葉だった。そして他のお客様にも同じように電話をして、未収金を回収することで会社の資金繰りを大きく改善させた。その一方で番頭さんに「掛け売りがゼロになった段階で訪問販売をしたら絶対に売れる!」と外商の提案をした。その結果、呉服屋の売上は格段にのび「教育者の娘さんやけど、この子は商売人や。」という評価をもらうに至った。

結婚翌月から19歳の女性が会社の経営を任される! 結婚式の写真

悦子が結婚をしたのは19歳の時、見合い結婚だった。相手は、戦前煮干し商として隆盛を極めた山城屋の跡継ぎである真田和夫だった。悦子は和夫の誠実な性格に惹かれていたのだが、実は商家の嫁として真田家に悦子を薦めたのは、アルバイトをしていた呉服屋の旦那だった。真田家には代々、経営に携わる女性が存在しており、戦前の隆盛を創ったのは和夫の祖母にあたる真田サダであった。
サダの娘婿、明が若くして亡くなったため、明の息子である和夫が後継ぎになるのだが、和夫が病気がちであったため、かわりに会社を引っ張っていける女性を探していた。そしてサダは呉服屋の旦那から悦子のことを紹介され、直接悦子と会って話をして和夫の嫁と見定めた。それがサダの最後の仕事であったかのように、サダは結婚式の1か月前に亡くなった。
結婚式は8月に催された。当時としては珍しくウェディングドレスを着た結婚式だった。そしてすぐに病気がちな主人にかわって、悦子が会社の陣頭指揮をとることになった。


高松時代の会社 出産間近で四国初出店スーパーの視察。 大阪で始めて購入した4軒長屋の前

子どもを産み育てながら会社を経営する中で、1958(昭和33)年悦子が24歳の時に転機が訪れた。四国で初めてスーパーマーケット「主婦の店」がオープンすると聞いて、悦子は商売人5人の仲間たちとともに愛媛県松山市まで視察に出かけた。その時悦子は臨月でお腹もずいぶん大きくなっていた。当時の買い物は全て対面販売で、見栄もあり徳用品ばかりを買うことが憚れたため、買いたいものを好きなだけ買えるスーパーのあり方に驚愕した悦子。その様子を見て鳥肌が立ったという。四国初の出店ということもあり、ダイエー創業者の中内功氏や中内氏の師で、スーパーの原点を作った吉田日出男氏がお店に来ていた。


当時の主婦の店

身重の悦子が見学していると、スタッフの方が気遣って奥に腰掛けるようにすすめてくれて、その場にいた吉田氏から直接色々話を聞くことができた。
その悦子の熱心な様子に吉田氏も心を打たれ、「スーパーを相手に商売をするのだったら、大阪に出た方がいい。今関西では毎月のように新店舗ができている。」とアドバイスをくれた。これから時代が変わると思った悦子は「子どもを産んだらすぐに大阪に向かいます!」と決意した。一緒に見学に行った仲間も誘ったが、周りから大反発をくらうことになった。そして視察から4か月後、生まれたての子を抱え、一家で大阪に向かった。実家の猛反対や近所や商売人仲間の嘲笑の中での引っ越しだった。そして、夫・子供たちと共に大阪桃谷のアパートに着いた。

主力商品が会社を変える

スーパーが消費者に浸透し会社は順調に推移していたが、問屋同士での競争が厳しくなり始め、特約の主力商品を持ちたいと悦子は考えていた。そこで当時人気があり、扱いたくても扱えない商品に目をつけた。ある日、悦子は人気新商品を扱う即席麺メーカーに電話をかけ社長が会社にいることだけを確認し、直接向かった。アポイントまでは取っていなかったが社長に出会うことができた。もちろん人気商品を扱いたいというのが狙いであるが、それをそのままぶつけても通るわけはない。そこで悦子は商品の持っている価値を伝えた。それに対して経営者は「君はよくわかっているね!うちの役員会に来てもらいたいくらいだ。」と言い、商社経由でこの新商品を取り扱えるよう、取り計らってくれた。そして小さな問屋ではあったが、看板商品を取り扱えるようになった。その後その社長から「あの女性は一人で来て、一人でいい話をして、一人で持って帰った。」と話している。
悦子はことあるごとに一人で乗り込み、ここぞという場面で大きな結果を得ている。そこには「勇者はひとりで立つ時、最も強し」という言葉をいつも心に刻んでいた。

当時の悦子  守口市にあった本社工場

円形脱毛症になるまで悩んだ、30億円から6億円への大英断

それから20年近くが経過して、会社は30億円ほどの売上にまで成長した。その頃アメリカに留学していた長男佳武が帰国した。佳武は会社の状況を見て「食品最大手との取引は止めないかん。世界の食品メーカーだ。わが社がチョロチョロ付き合っていける相手ではない。それよりも、乾物のことならわかる。乾物のメーカーになろう。」とことある毎に言ってきた。当時年商の8割(24億)を1社の商品で占めていた。売上はあがるものの、小問屋の機能ではなかなか利益がなく、他社ブランドの乾物商品の利益を食いながらやっていける状態だった。しかし取引を止めると資金繰りも支障をきたすことになり、その時悦子は円形脱毛症になり声が出なくなるほど悩んだ。しかし当時付き合いがあった銀行3行に相談したところメインバンクに理解を示してもらうことができ、乾物メーカーに業態変換することを決意した。そして「乾物で日本一になろう」と決め、その決意を社員全員に繰りかえし語った。
「乾物は日本の食文化の中で絶対に廃れることはない」との強い信念から原料、デザイン、商品説明、プライスなど「7か条のコンセプト」を掲げて商品開発に当たった。そして本物志向のお客様にも喜んでもらえる乾物とは何かを追及した結果、大手スーパー各社から商品のオーダーが相次ぎ、メーカーへシフトさせることに成功した。また乾物だけでスーパーの棚が構成できるだけの数の商品を作り、商品構成や売上げ・利益の予想まで含めて提案しスーパーに売り込んだことで、山城屋の商品は全国に拡がり始めた。

こだわりの商品を一つ一つ開発していき、商品数が増えていく
誰もが売れないと馬鹿にした商品を全国1位に! 京いりごま 写真

300種類を超える商品開発に携わった悦子だが、その中には業界の常識を覆した商品がある。それが京いりごまだ。
1970年代、家庭で使われるごまは20〜30円で販売されていた白ごまが定番だった。そのような中、ごま製造メーカーがお土産として悦子に持ってきたのが、金ごまだった。今日では家庭でも定番として使われている金ごまだが、当時は一般に出回ることはなく、京都の七味メーカーが京七味用に使っている程度だった。その金ごまを初めて悦子が食べた時、「今までのごまとは全く違う!」とその香ばしさとうまみに驚いた。ただ商品をお土産として持ってきた仕入先担当者は「原料が普通のごまの3倍もするんです。その上、製法も手間暇かけ、少量ずつ煎り、少しでも煎り過ぎたものは全て捨ててしまいます。こんな高価なごまは一般には売れません。」と言う。その時悦子は、「これだけ香りがよく味が違ったら絶対に売れる!」と確信した。そして商品化に向けて進めていこうとしたが担当者は消極的だった。他の老舗ごまメーカーに金ごまの話をしても「たかがごまに3倍も4倍もだして、買うはずがない。」と馬鹿にされた。しかし悦子は「300円のものが900円になるんだったらなかなか売れないけど、30円が90円になるんだったら絶対に受け入れられる!」と考えた。そして何とか発売に至り、消費者の反応を見ると悦子の狙いは的中した。京いりごまは発売の翌月から評判を呼び、今までになかった金ごまは当時日本一の量販店チェーンでごま部門売上1位を記録した。この京いりごまは今なお山城屋の看板商品として売れ続けている。


京きな粉 写真

その京いりごまと肩を並べ、山城屋の看板商品となっているのが京きな粉だ。原料となる大豆の種類や焙煎方法で価格が変わるきな粉だが、この京きな粉は北海道産大豆にこだわり手間をかけて少量ずつ大豆を焙煎する製法だ。京きな粉が全国で広まるきっかけになったのは、牛乳にきな粉を混ぜる飲み方がひろがったことにある。数あるきな粉の中で、「このきめ細やかで香ばしさの深い京きな粉ががどれよりも美味しい!」と牛乳きな粉ファンの中で情報が広まり、一気に浸透していった。

山城屋にとって「京いりごま」や「京きな粉」といった「京」の冠を持つ商品が会社の看板商品になったことが、京都ブランドの創造につながっている。

※京いりごま、京きな粉はそれぞれのカテゴリーでPOSデータ1位を記録し続けている。

平成の時代真田千奈美の挑戦|商売人に嫁がせるようにと、祖母が探した見合い相手

昭和33年、千奈美は香川県の手袋トップメーカーである「スワニー」に生まれる。スワニーは千奈美の祖父母が一代で創業し、大きく成長していった会社だった。創業者夫人の三好七五三子(しめこ)は根っからの商売人だったが、数いる孫の中でも「千奈美は私にそっくりだ。あなたのような気の強い女は、商売人に嫁がなければならない。」と千奈美がまだ小さい頃から、ことあるごとに言い続けてきた。そして千奈美が20歳を過ぎると、七五三子(しめこ)は言うだけではなく「嫁に仕事をさせてくれる商売人」をキャッチコピーにして見合い相手まで捜してきたのである。紹介された見合いに応じて、当時食品問屋だった「株式会社真田」へ昭和57年に嫁いだ。年寄りの言うことは聞くものである。

子育てしながら会社の屋台骨を支える

結婚を機に松下電器産業株式会社を退社した千奈美。当時の会社は中小問屋として事業を続けていくことに危機を迎えており、これから乾物メーカーに切り替わろうとするタイミングだった。会社では総務・経理・人事の仕事に約10年間携わりながら、3人の子どもを産み育てた。その間、就業規則や人事考課表作成などを成し、だんだんと仕入や商品開発を行うようになって行った。そうして前専務の悦子とともに商品開発に携わり、手軽に乾物料理が作れる「京のおばんざい」シリーズ「さらさら片栗粉」「ごまあえの素」などを開発した。千奈美が開発した商品はイオン等全国のスーパーで販売され、ヒット商品となった。会長悦子・社長佳武・専務千奈美の3人で仕事を役割分担し、増築を繰り返しながら社員数も約100名になった。同時に売り上げも2005年度には36億円にまで成長した。

会社を変えていくことへの決意

2006年、順調に業績が推移してきた山城屋が転機を迎えた。今まで増収増益を続けてきたが、この年になって5%売上が低下したからだ。そして次の年も売り上げは5%減少し、利益率も低下を始めた。千奈美は売上減少の理由を考えた時、内部要因もさることながら、乾物をとりまく外部要因が大きく変わってきていると考えた。そしてこれからも環境はどんどん変化していくからこそ、今こそ大きく会社の方針を転換していくべきだと思いめぐらすようになった。
いかに革新していくべきかを思案していた時、千奈美の目に飛び込んできたのは立命館大学MBAのポスターだった。興味をもった千奈美は試験を受けることを決意した。
入学してからは今まで悩んでいたことが次々と頭の中で整理されていき、大学での学びが仕事につながっていった。まさに今手を打つべきであると再確認することができた。また同時期に本社工場を京都に移すことを決め、「京都ブランド」を創造することに生き残る道を見出した。心身ともに京都の企業となるために、2004年に京都八坂に店舗「山城屋」を開業し、2009年に工場を京都府宇治市へ移転しながら、戦略の改革も同時に行った。商品数を300種から200種まで削減、物流部門をアウトソーシングし、東京支店を京都へ統合した。

1000年続く会社にするのが、自分の役割 ドラッカー翻訳者、上田惇生先生とのお写真

千奈美は立命館大学で学ぶことで、自身の役割をこのように考えるようになった。それは客員教授上田先生よりお教え頂いたドラッカーの「何によって覚えられたいか」という質問だった。「創業100年の山城屋を永続する1000年企業に育てることである。そして、革新と共に身の丈の幸福感を追い続けることであり、その礎を創った者として覚えられたい。」そう決めたからには次々と邁進していく。
工場の充実こそがこれからの生きる道と考え、乾物工場としては珍しいISO9001を取得し、お客様に安心・安全をお届けできる商品づくりを長男英明に任せた。2010年には「きな粉・京都産金ごま・京野菜」の開発で農商工連携事業の認定を受けその具体的新戦略として、「きな粉」の情報発信源としてきな粉専門店「きなこ家」のオープンや、既存店舗における「金ごま・京野菜」の事業展開は社員によるプロジェクトチームに任せた。それ以外にも社内改革を進める4つのプロジェクトをつくり、会社の改革、社員の育成に力を注いでいる。さらに立命館MBAの優秀な卒業生を受け入れ、社内ベンチャーとしてオンラインビジネスや海外展開、社内のIT化を推進。1000年企業に向けて、会社は大きく変わり始めた。


京都八坂にある山城屋本店|宇治市にある本社工場
未来に向けて真田寛子の挑戦

山城屋が新たな取り組みとして2011年3月、農商工連携事業計画にある「きなこ」の販売拠点として京都八坂にきなこ専門店「きなこ家」をオープンした。その新店舗の店長を務めるのが千奈美の長女、寛子だ。

きなこ家と店内写真

きなこは、たんぱく質不足や女性特有の病気等に必要な栄養素を豊富に含んでいる。しかしきなこは若い世代にはあまり注目されていなかった。「食べ方が限定されている」「年寄りの健康食」というような先入観がつきまとっていたからだ。そこで寛子は、若い世代が関心を持つきなこの新しい使い方を考えれば、きっと受け入れられるはずだと考えた。
きなこは乾物の1つであり、山城屋の主力商品でもある。そのため今までの商売の中で、きなこの美味しい使い方は十分に蓄積されていた。祖母と母が扱ってきたこのきなこを、今の若い世代が抱える悩みに応える形にする。まさに山城屋がやるにふさわしい、新しいチャレンジだ。
寛子はオープンに向け商品試作や店舗開発、資材の仕入れなど、きなこ家の開店のために奔走した。勤めていた大手印刷会社を辞めての船出だった。不安もなかった訳ではない。しかし社内や仕入れ先の支援もあって、構想から半年で「きなこ家」はオープンにこぎつけた。
オープンして2か月、寛子の狙いは当たり若い世代が多く訪れ、店内は賑わいを見せている。メディアからの問い合わせも増え、順調な滑り出しだ。しかし「きなこ家」は一飲食店としての成功を目指しているわけでは無い。
「伝統食であるきなこを新しい形で復活させる」
そして「きなこがない海外にもきなこを伝える」
それは途方もなく長い道にも思える。だがその先にあるものには、それだけの価値があると信じている。寛子のチャレンジは、今始まったばかりなのである。

女性が活躍する真田家のルーツ|明治・大正時代栄華を極めた山城屋を創った真田サダという人物 100年前の東本願寺

真田家の歴史は香川県高松市にある真田家の菩提寺、無漏山須摩提院福善寺と共にあり、真田家は戦前からこの福善寺の檀家総代であった。
伝承によれば、戦国時代の大永年間、西暦1500年代初頭に真田の家名を見ることができる。


真田サダ 肖像写真

江戸時代は米問屋を営み、大地主であった真田家。 その真田家が大きく飛躍するのが1900年、真田サダが彦次郎を養子縁組婚姻した事によるものであった。
真田サダの計らいで東本願寺の改修時に寄進をし、1904年京都東本願寺より「山城屋」の屋号を頂戴した。そして瀬戸内海全域の漁師より煮干を買い付け、煮干問屋を創業した。

貧しい漁師に対して常に立派な御殿、夜具、ご馳走、酒を用意して、煮干の収穫を待った。そのためこぞって山城屋に煮干しが集まり、昭和初期に全盛期を迎えた。港には十の蔵を有し、当時珍しい3階建ての家屋に座布団程の大黒柱であったと伝えられている。


真田家の墓石に刻まれた「通町 山城屋」の文字

それが戦争により財産をなくすことになり、1946年に乾物問屋として再スタートさせる。そして昭和を駆け抜けた真田悦子を山城屋の後継者と見定め、1953年7月4日永眠。

現在も真田家に、
そのDNAは受け継がれている。






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